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■時計師ルイ・モネ (和訳)

Louis Moinetルイ・モネは、異論の余地なく、世界にこれまでに登場した最も優秀な時計師の一人である。
1768年 ルイ・モネはブールジュの裕福な農家に生まれる。中等学校では古典の勉強に優れた能力を発揮し注目を集め、コンクールではいつも最優秀賞を獲得していた。

彼が時計技術に親しんだのはまだ小学生の頃で、暇さえあれば時計職人の親方のところに通っており、またイタリア人の画家からは個人的にデッサンの手ほどきも受けていた。

Romasp20歳になった頃、モネは芸術の本拠地イタリアへの思いを募らせ、そして、フランスを離れローマで5年間暮らすこととなる。
ローマでは建築・彫刻・絵画を学び、また、当時の最も著名な芸術家を集めたフランス・アカデミーの会員たちとも知り合う機会に恵まれる。

Florenceローマからフィレンツェに移った彼は、そこにしばらく滞在し、芸術に関する知識にさらに磨きをかける。画家としての彼は、いくつかの絵画を我々に残してくれている。

その後パリに戻ったモネは、芸術アカデミーの教授となり、ルーブル宮に住まいを与えられることとなる。これと同時に、彼は以前から強い関心を抱いていた時計技術の理論と実践の学習に取り組み始める。そして、かつての恩師とも旧交を温め、教える側となっていた彼が10年もしないうちにまた教えられる側の立場に戻っていた。


L'Academie des Beaux-Arts a Parissp 彼は時計技術に専念することになり、道具を手に入れるため頻繁にスイスへ足を運び、長期滞在を繰り返すようになる。彼はパリ時計技術協会の会長になると同時に、いくつかの学術・芸術団体にも加わった。

1811年、彼は当時すでに有名だった「アブラアム=ルイ・ブレゲ」と知り合う。ブレゲはモネの才能をすぐに見抜き、そして、優れた才覚の持ち主だったブレゲは、パリの自分の家に住まわせることをモネに決心させる。
モネはブレゲにとって最も親しい相談相手となる。これを契機に新たな展開が始まり、技量と天賦の才能が手を携えて歩み始めることとなる。そして、優れた眼識に裏打ちされた、芸術作品が生み出されていくことになった。
ブレゲは、モネからも大きな影響を受けるが、一方、ブレゲの息子の「アントワーヌ=ルイ」は、父と過ごす時間が自分よりも多いこの男の存在を快く思っていなかった。

ブレゲは1823年に亡くなり、モネはオルロージュ河岸の住居を引き払い、メスレー通り34番に引っ越す。
モネは、フェルディナンド・ベルトゥードの標準時計をほぼ完璧に再現し、また、自ら考案した60分の1秒計を完成させる。これに匹敵するものは未だに登場していない。
さらに、彼は標準時計や天文時計も手掛ける。創意工夫に富んだ彼は、時計技術の向上にも貢献した。産業製品見本市を見学したフランクール氏は、ネジを巻くのに便利な新しいテンプ受けを高く評価している。そう、これを考案したのもルイ・モネである。

D'horlogerieそうして、ルイ・モネはかの有名な『時計技術概論』(1848年出版) の執筆に取りかかる。この書物は、時計技術に関するこれまでの著作の中でも最も内容・記述が充実したもので、時計技師にとっては手放すことのできない存在となっている。この書物は不朽の名作であり、ルイ・モネの名声を不動のものとした。
彼は時計技術のために全てを捧げた。時間も財産も、そして自分自身の健康さえも。彼は生涯の大半を「モノ」に生命と魂を吹き込むことに捧げたのである。

我々は、モネの晩年の12年間、彼と親しく接する幸運に恵まれた。この優れた人物の知性と人柄が備えた、数多くの資質を真に評価できるのは、我々をおいて他にはいないだろう。何事にも、どんな議論にも積極的に取り組む人物。それが、パリ時計技術協会会長として我々が知っているモネであった。的確で明晰な判断、寛容な人柄。彼は、常に弱者を勇気づけ、誰にでも気軽に助言を与え、分け隔てすることも、なんの魂胆を抱くこともなく、指導者としての才能を遺憾なく発揮していた。

ルイ・モネは1853年5月21日パリで亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬される。彼は、夫人と一人息子を残してこの世を後にした。彼の思い出は、これまでに世界に現れた最も優れた時計師の一人として、末永く人々の心に刻まれることになるだろう。

時計製造技師 パリ時計技術協会副会長 M・デルマス


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■ルイ・モネの傑作史料
 【有名美術館・博物館収蔵品】

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ルイ・モネが著名なブロンズ鋳造師、ピエール=フィリップ・トミール (1751年-1843年) の協力を得て制作した芸術作品の中には、一流の美術館・博物館に今もなお展示されているものも少なくない。

・ルーブル美術館 (フランス/パリ)
ブロンズと黒大理石を用いた置時計。オイディプスとアンチゴーネの像を配置。1810年作ルイ・モネの署名入り。

・ベルサイユ宮殿 (フランス/ベルサイユ)
彫金細工を施したブロンズに金メッキしたルネッサンス風の振り子時計。頂部にはキマイラを象った取っ手の付いた壷があり、その両側には花飾りを抱えた二人の子供が配されている。

・時計博物館 (スペイン/ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ)
ビーナスとキューピッドを配したブロンズ製の置時計。

・ピッティ宮殿 (イタリア/フィレンツェ) LM_clock03
フェルディナンド3世を誉め称える、寓意的作風の置時計。1812年作。

・英国王室コレクション (英/ロンドン)
アポロン像を配した置時計で温度計付き。英国王ジョージ4世の置時計とほぼ同じデザイン。

・スクーン宮殿 (スコットランド/パース)
「ファーザー・タイム(時の翁)」を表した華麗な振り子時計。柄の長い大鎌を手にした死神が時間の球体を支えている。この球体の中心に時計がある。

・ホワイトハウス(米/ワシントンDC)
フランスの王政復古時代 (1814年-1830年)、パリはファッションと高級品の中心地となっており、当時の芸術家や時計師たちが歴代の国王(ルイ18世、シャルル10世、ルイ=フィリップ1世)・皇族やその宮殿のために働いていた。1817年、米国の第5代大統領ジェームス・モンローは、パリに美術品を発注。その理由は、1814年に英国軍の焼き打ちにあい、建築家のジェームス・ホーバンが建て直したホワイトハウスの内装を新たに行うためであった。

LM_clock01その時購入された美術品は時を経るにつれ、競売に掛けられたりホワイトハウス改築時に取り除かれたりして、ほとんどが消失してしまう。現在では、ごくわずかが残存しているだけであるが、その中にルイ・モネが手掛けた振り子時計の名作「ミネルバ」がある。


■ルイ・モネの天文時計
 【ロンドン万国博覧会 1851年】


ルイ・モネは、天体の運動を表す複雑なクロノメーターを作っている。この時計は、1851年のロンドン万国博覧会の際に水晶宮(クリスタル・パレス)に展示された。